ルーマンの立場だったらこれについては何をいうか」という問いはきわめてルーマンの立場からかけ離れている。おそらくより違和感を感じさせない問いは「この言明をルーマンの立場から言い換えるならどういうことができるか」という問いだ。ルーマン自身が自分の社会理論について、マルクス主義にも利用できると述べているように、「マルクスはこう言った。ではルーマンならこうした事態をどう記述するか」と問うことはできる。「マルクス」の位置に、何を代入してもかまわない。それが「観察するもの」であるのならば。さしあたって、このような「ルーマン理論のユニークネス」をもって「セカンド・オーダーの観察(としての理論)」とよんでおく。
だがこのように「定義」したその瞬間にすかさず違和が生じるように思われる。ルーマンは他の観察者たちを一望のもとに観察する特権的観察者であって、いわゆる「メタ観察者」だとでもいうつもりなのか、と。そのような主張はルーマン信仰から派生したものにすぎず、いったい誰がそのようなものいいに耳をかたむけるのか、と。
ではこのように反論しよう。ルーマンは他の観察者たちを一望のもとに観察する特権的観察者である――他の観察者たちと同様に。「メタ観察者」であるか? その通り。ただし文字通り、meta(後に置かれた・書かれた)観察を行う観察者であると。カントは、ジンメルは、ウェーバーは、人格(Peron)をこのように観察した。また、人びとは人格をこのように観察した。ここでの〈このように〉-性がセカンド・オーダーには宿っているのであり、かかる意味でのみ、メタ-性を孕んでいる。
以上は外在的な説明である。ルーマン理論に内在するなら、次のような困難、について釈明を行わなければならないはずである。すなわち:観察者はシステムである。「ルーマンは」と、主語に述語を押し付ける言語の強制力に自堕落にわれわれは従わなければならないのであるが、「ルーマンは観察する」というとき、われわれがルーマン理論に内在して(そして言語をともなって)いるのであれば、「ルーマン理論-という-システムは-観察する」という意味のことを述べているのであり、また、そのことは、「『ルーマン』という署名を手がかりにして、その署名が帰属されるところの(かかる帰属は社会的慣習にすぎないとはいえ)テクストに意味を見出し(=テクストの意味を規定し)、そうして《ルーマン理論-という-システム》を同定(=単純化・縮減)し、『ルーマン』という固有名で人格化されている心的システムがなんらかの観察を行った、ということを、読者である他はないわれわれが観察していること、その謂いなのである。困難は:では、かかる意味で「観察するもの」として同定された「ルーマン理論」が観察する(とわれわれが主張する)ところの対象はシステムであるのか。カントが、ジンメルが、ウェーバーが、人びとが人格についてなにか述べたとき(あるいは述べなかったとき)、その述べられたことはシステムであるのか(少なくともシステムの要素たる作動(Operation)であるのか)。「観察者の観察」をセカンド・オーダーの観察と定義するのである以上、観察される観察者はシステムでなければならない。
これまでもたびたび行ってきたように、先回りして結論を述べれば、ルーマン社会理論に内在するのであれば、観察される観察者はシステムであり、あるいは少なくとも作動である。なぜなら、観察する側(セカンド・オーダーの側)がシステムだからである。観察対象は観察者の環境に現われるだろう。少なくともテクストという《出来事》として。物質連続体である、総合的統一である、意味的統一の出来事として。われわれがセカンド・オーダーを自称するのであれば、かかる出来事の連鎖をもって、システムと名ざす。かくして「困難」はさしあたり棚上げされる。
こうした「釈明」は、見たとおり、循環している。ルーマンは循環や自己言及は非生産的であるとする伝統的論理学とは袂を分かち、自己言及の生産性、自己言及を「展開すること」の可能性を主張している。しかしわれわれはここで、かかるルーマンの(自己言及についての)主張を強く支持したいのではない。循環はあくまでも前提である。ルーマンに影響された言い回しを使うならば、循環していない、「生産的」な社会学的言論・考察とはどのようなものか、われわれの立場を批判する連中は示さなければならない。おそらくそこで示されるであろうものの循環や非生産性を暴き出し(お望みなら「脱構築すること」といってもいい)、つきかえすことは容易であろう。だが、だからなんだというのか。われわれは循環も非生産も避けようとはしていないし、非循環も生産も望んではいない、というだけである。そういったもの(循環や生産)が到来したならば、それは到来したのである。