なぜ帰属という現象は起きるのか。
このように問うとき、帰属という現象は何と区別されているのか(つまり帰属でない現象とはいったい何なのか)。
この問いさえも錯視なのだといえる。
帰属という現象が現にある。
その後、なぜこのような現象が起きるのだろうかと考える。帰属の可能性の条件は何かと。
では帰属が生じない可能性の条件はどのようなものなのか。想像することはできる。出来事が出来し、帰属が起きる。その時差。そこにはいまだ帰属がなされてはいない、出来事にとっての「パラダイス」がある。
しかしその「時差」について考えることは、すなわち帰属の可能性の条件について考えるということにはならない。しかるべき「時差」の後に、「帰属」以外の現象が生じたとき、帰属および非帰属の(不)可能性の条件について考えるための条件が整う。
しかし帰属に拘泥しながら、帰属について考える条件はいつまでも整いようがない。
はやめにwhyの問いを切り上げて、howの問いへと移行せよと、近代通常科学はせかす。
だがhowの問いが求める「解答」こそがwhyのリビドー備給へと応答する形式であって、帰属そのものではなかったか。
説明と記述(叙述)がこの地点で循環している。