この論文の企ては、観察方法の脱存在論化にある。
成功するにせよ失敗するにせよ、「観察方法を脱存在論化できる」と想定することは、「観察者一般の観察方法が、すでに存在論化されている」と想定していることに等しい。観察者一般の観察方法を存在論化している装置のことを、記号とよぶことにする。
記号の代表は言語である。記号の性質を考えるには、言語を用いて・言語の中で・言語をアナロジーとして用いることによってしか可能ではない。したがって、記号のサブカテゴリーに言語をおくことは、逆立ちをしているかのように見えるかもしれない。むしろ言語こそが、ここで記号とよんでいる装置の本性なのではないかと。しかし、この論文で扱う、「存在論化する装置」には、一般に言語とはよばれていないことがらも含まれる。たとえば、無言で指差す行為は、記号として働くが、一般には言語とはよばれていない。これでさえも、body languageとよんで、言語をアナロジーとして用いることによってしか、その記号性を暴くことができないのはもちろんのことである。このような、記号の一般的性質をあえて言語とよぶときには、〈言語〉と括弧つきで名指すことにする。
存在論化する装置の働き・記号の働き・すなわちここで「存在論化」とよんでいる働きのことを、帰属attributionとよぶことにする。これは冗長な定義ではないが、冗長に用いられることもある。存在論化=帰属ではない。帰属が働くとき・帰属という現象が生じるとき、存在論化がそれに伴って生じている。存在論化と帰属を厳密に区別することは困難であるし、この区別の問題を考えるにはまだ用具的手立てが整っていない。さしあたり、「存在論化は帰属現象において・の中で生じている」という定理を立て、これを手がかりとして議論を進める。
この議論も、言語を用いて、すなわち帰属の中でなされなければならない。言語は、脱存在論化の企てにとって不適切で不十分なメディアだとはいえるが、不可能なメディアだとはいえない。二十世紀の多くの思索が言語との格闘によって・の中でなされたこと、その多くが頓挫ないし失敗していること、現在それらの仕事がほとんど顧みられていないことなどはよく知られていることではある。しかしわれわれは、それらの仕事がなぜなされねばならなかったのか、なぜ失敗しなければならなかったのか、なぜ現在顧みられていないのか、といったことを、有意味に理解することができる。少なくとも、言語は、この理解の手立てになっている。言語の教えるところによれば、失敗の反対は成功である。言語の中では、失敗することによって、消極的に成功を指し示すことができる。成功を積極的に指し示してしまうことは、言語の中でなされることだが、消極的に指し示すことも言語の中で可能なのだ。